第22話

 柔らかな初冬の朝の日差しが、部屋に差し込む。

 その光を受けて、サリエルは目を覚ました。

「ん…」

 視える世界が広い。やはり昨日の出来事は夢ではなかった。そう考えると身震いがした。

 起き上がり、壁に掛けられた鏡を見る。長い左の前髪を掻き分けると、やはりそこには紫色の瞳があった。村にいるときは、毎日見ていたはずのその瞳に、自分自身が吸い込まれそうになる。

「――!」

 我に返って、急いで着替える。朝の務めに行かなくてはならない。

(何もない、何もなかった…。僕は…いつも通りに戻るんだ)

 そう必死に自分に言い聞かせる。しかし、胸の鼓動は早まったままだった。

 

 朝にも関わらず既に強い日差しが、南方の海を航行する船の帆をギラギラと照らしている。その日差しは船内にも窓を通して差し込み、暑さも相まって、否が応でも眠りから叩き起こされる。

「おはよー…」

 船内のミーティングルームに軽装であくびをしながらファーナが入る。朝食はこの部屋で皆で採ることにしていた。今日はトースト、目玉焼き、紅茶、チョコレートの焼き菓子と、至ってシンプルだった。

「このラインナップは…先生?」

 先に腰かけて食事をしていたラークにファーナは質問してみる。

「たまにはいつも通りの朝がいいと頼んだんだ。あまり多く食べても、船の中では特に運動もしないから、贅肉に回ってしまうし」

 確かにそうなのだ。クルーは元々食べっぷりのいい人たちばかりで、3食どれもが毎回量が多い。特に日なが一日、読書や物書きなどで過ごすラークにとっては死活問題だったようだ。

「…ん?身体鈍ってるから一戦やろうってか?」

 ラークの斜め向かいに座っていたカティスが茶化す。

「場合によっては頼むかもしれん…」

 無下に断るのかと思っていたら、意外と前向きな返事が返ってきて、カティスは驚いた。

「ま、マジかよ…」

「まあ…食事の内容は考えるよ。はい、姫さん」

 ラズリがファーナの分の食事を運んできた。ファーナは目を輝かせて、カティスの隣に座る。

「確かにこういう食事、久しぶりかも。いただきますっ」

 と、まずは紅茶を一口含み、どこかで口にした味だと気付く。

「あれ?これって…」

 目をぱちくりさせて、向かいのラークを見る。

「ああ、あのアジトで飲んだ紅茶のようだ」

 ファーナとラークがラズリに視線を向けた。

「ん?この紅茶?大陸では珍しいかもな。フォーレスの茶葉なんだよ」

「フォーレスの…」

 ファーナはその言葉にぽかんとしてしまった。フォーレスへの旅。目的地は最早それほど遠くはないのだ。それをこのような形で実感するとは。

「成程…確かに。エルガードの店先にもあまり置いてないな」

「そういえば、サイが言ってたなー。エルガードにはあんまり美味しい紅茶が無いって。今度送ってもらったら?」

「…そうだな。もしかしたら向こうで会えるかもしれないしな」

 二人の会話を、カティスが不思議そうに眺める。

「ん?サイってのはフォーレスの人間なのか?」

「うん。私の寮仲間。今はもう国に帰っちゃってるけど、結構親しくしてたの。私も先生もね。確か結構いいとこの出だったよね?」

「ああ。神官家だな。ただフォーレスは女系だから、男は気軽なものだと言っていたが」

「…神官家かよ…。エルガードってのは玉石混淆だな…」

 感心したようにカティスは溜息をついた。

「この紅茶自体は、フォーレスとの中継地点のバイタルにも置いてるよ。この船も補給で一泊する予定だから、着いたら案内するけど」

「それは…ありがたいな。ぜひ頼む」

 ラークがふっと笑う。

「バイタルかあ…。そういえばレオンさんからもらったジェムもバイタル火山のものだって言ってたけど、この子にとっては里帰りか」

 首から提げているペンダントの石を持ち上げて、しみじみとファーナがつぶやく。

「石に里とかってあるもんなのか?」

 ラズリが真顔で尋ねる。

「え?あ、いや、何となく…」

 何気ない言葉に真正面から疑問が投げかけられて、ファーナはたじろぐ。

「…あるかもな。特に質のいいものは。石に精霊の意志が宿る…私が持っているこのジェムのように」

 ラークのその言葉に、ファーナとラズリが顔を見合わせる。そして同時に噴きだした。

「ん?変なこと言ったか?」

 ラークが二人の反応に戸惑う。

「だ、だって、石に意志がって…!いや、そ、そうなんだけどっ…」

「ラーク殿も、意外と天然なんだな…ふふっ」

 しばらくラークは呆気にとられていたが、やがて苦虫を噛み潰したような表情になった。

「ご愁傷様」

 カティスも少し小馬鹿にしたような笑みを浮かべて言う。

「う、うるさい」

 丁度食事も終わり、ラークは席を立った。

「後で甲板に来いよ」

「はいはい」

 カティスは退室するラークにひらひらと手を振った。

 

 朝の勤めを終えたサリエルは、他の神官との会話もそこそこに、城内教会を後にしようとしていた。正直、昨日の今日で色々と話を聞かれるのは疲れてしまう。自分の心の中でも正直整理がついていない。

 しかし、その思いは断たれてしまった。出入口に向かおうとした矢先、目の前に白髪の威厳のある老人が教会内に入ってきた。

「ヴィオル様…」

 サリエルは顔をひきつらせた。ヴィオルはまっすぐにサリエルの目の前に立ちはだかった。

「サリエル、体調はいいのか」

「は、はい…。おかげさまで」

「そうか。立ち話も何だ、その辺に腰でも掛けようか」

 ヴィオルはサリエルを近場の参拝者用の長椅子を勧めた。サリエルは促されるまま、おずおずとそこに腰かけた。ヴィオルも隣に座る。サリエルはそれだけで身を固くした。

「それで、僕に何かご用でしょうか…?」

 正直、用なんてあって欲しくなかった。何を聞かれても答えたくない。しかし、相手はこの国の実質的な最高権力者だ。

「『白天使』殿は…今はいずこにあらせられるかは、解るか?」

「え…?」

 いつだか立ち聞きした内容を思い出す。世界の命運が掛かっている――昨日は混乱してそのことまで頭が回らなかったが、確かに、ヴィオルとヘディンが話をしていることは知っていた。サリエルは声を潜めて答える。

「この世界には…多分いらっしゃいません。あそこは多分…『闇世』と呼ばれる世界…」

「『闇世』だと…!」

 ヴィオルが驚く。

「…ご存知、でしたか」

「天教の前身と言われている信仰の一つにあるのだよ。全ては闇より生まれ、闇に帰す。その世界を『闇世』と言うのだと。…その世界におられると言うのか…」

 ヴィオルは困惑したように、溜息混じりでそう言った。

「でも…亡くなってしまっているという訳ではないと思います。ずっと、あの世界におられて、僕たちを見守ってくださっている…のだと思います」

 慰めではなく、これはサリエルの直感だった。

「ならば、何故この世界の危機に降臨されない?お主に何かを語りかけるのみなのは何故なのだ?」

 サリエルははっとする。

「そ、それは僕には…見当が…」

 困惑の表情を隠せない。実際、それ以上の事は自分にも全く分からないのだ。

「…そう、か…。ところでサリエル。何故お主は『闇世』の事を知っているのだね?これは天教の教えにはどこにも出てこない…。伝えられることがまず無い言葉だ。それをお主はどこで知った?」

 サリエルの背筋に冷や汗が流れる。そこで不用意な発言をしてしまったことに気がついた。

「そ、それは…」

 言ってはいけないような気がした。しかし、ここまで来てしまっては言わなければならない。

「僕の村に…そういった言い伝えがあったから…です…」

 おずおずと紡いだその言葉に、ヴィオルは目を剥いた。

「ほう…?お主の村は、『天使しか知り得ない』事が伝わっていたのか」

「…っ」

  追い詰められて、サリエルは言葉に窮する。

「…ここでは人目がある。その話、詳しく聞かせてくれぬかね」

 

 サリエルは後ろめたい気持ちを抱えながら、ヴィオルと共にいつぞやの地下書庫へと向かった。すぐにでも壊れてしまいそうな古い書物が所狭しと並べられ、積み上げられている様子を見て、サリエルは息を飲んだ。

 サリエルが扉を閉めるのと同時に、ヴィオルはランプに火を灯す。薄暗い中で、サリエルはヴィオルに勧められて、小さい机のそばにある椅子に腰かけた。ヴィオルもまた、机に備え付けられている椅子に腰を下ろした。

「ここならば、誰にも聞かれることはない」

 聞こえたんだけどな、という言葉をサリエルは飲み込んだ。

「わしにだけ教えてくれぬか。『白天使』様の存在は、これからの世界に必要なのだ。魔獣を…それを超える災厄を退けるために」

「魔獣を超える災厄…?何ですか、それは」

 きっと、ヘディンが深刻に考えているのもそれなのだろう。この二人しか知りえない大きな秘密がやはりあるのだと、サリエルは直感した。

「お主が話してくれれば、伝えよう」

 サリエルははっとした。ヘディンはこの件については何も伝えてくれない。ヴィオルに自分の身の上を明かせば、ずっとヘディンがはぐらかし、伝えてくれない『何か』をつかめる。意を決して、サリエルはヴィオルに向き直った。

「…解りました」

 サリエルはヘディンに伝えた通り一遍のことを、闇の精霊術を行使できるという事は隠したまま、同じように話した。ヴィオルは最初驚いてはいたが、最後には何か確信めいた頷きをするに到っていた。

 一気に話して、はあーっと長い溜息を吐いた。

「…その、今話したことは、ヘディンにも?」

「はい」

「そうか…」

 ヴィオルの顔に、何故か笑みが浮かぶ。それを不思議に思いながらも、サリエルは真実を知るべく疑問をぶつけた。

「あの…それで、ヴィオル様…。その災厄って…」

 ヴィオルはおもむろに、机の上に置いてあった古い本を手に取り、サリエルの前にすっと差し出した。

「『白天使』様がお主に語りかけるのは…遠くとも、薄くとも、お主がその血を引いているからに違いない。自分の子孫に世界を託す、そう仰っているのだろう。…かつて、『白天使』様ご自身が『倒しきれなかった』者による破壊と蹂躙から、お主はこの世界を護るべき宿命のもと、このカルディアに導かれたのかもしれん」

 そう言って、ヴィオルはその本の一ページを開いて指し示した。そこには『堕天使』の名が刻まれていた。

「…まさか…!そんな、ことって…」

 あまりの衝撃に、サリエルはがたっと音を立てて椅子から立ち上がり、後ずさる。

「あるのだよ…いや、『起こってしまった』のだよ。そしてその場にいたファーナを『攫って』行ってしまった…」

 失意の念が溢れるような弱々しい声で、ヴィオルはそう言った。

「攫って…?でも、王子は家出だって…」

「お主に気を遣ったのだろう。優しい嘘というものだ」

「そんな…」

 サリエルはがっくりと肩を落とした。そんな風に気を遣われていたなんて。もしも自分が本当に、その宿命を背負っているとするなら、今すぐにでも追いたい。追いかけたい。そして、最愛の人を取り戻したい。

「サリエル…。お主には、辛いかもしれんが…」

「いえ…。ありがとうございます。少し…休ませていただいても…」

「構わぬ。色々とショックも大きかろう。…自室に戻ってゆっくりと考えるがいい」

「はい…」

 サリエルは深く一礼して退室した。一人残ったヴィオルは口の端を持ち上げて笑みを作る。

「ヘディン…お主の思うようにはさせんぞ…」

 

 ――ヒュッ。

 音を立てて、細剣が空を切る。

「っ…とと」

 顔面スレスレでカティスはその切っ先をかわす。若干足がもつれ、左から体制を崩す。

「もらった!」

「やらせねえよ!」

 甲板に左手を付き、思い切り力を込めて横に転がるようにして跳ね、ラークの剣をかわす。

「…お前も、身体が鈍ってるんじゃないか?」

 ラークが息を上げながら、膝をついているカティスを見下ろして言う。

「張り合いのある相手がいなかったからかな」

 余裕そうな笑みを浮かべてカティスは言い放つ。ゆっくりと立ち上がり、右手に長剣を構え、左手をくいっと動かしラークを煽る。

「よく言う」

 ふっとラークは笑みを浮かべ、再びカティスに向かって剣を振るう。

 魔法禁止、空飛ぶのも禁止。多少の怪我はあり。そんな条件で始めたカティスとラークの手合せは、もう30分ほど続いていた。二人とも身体の動きが速いからか、見ているほうはもっと時間が経過しているように感じる。

「…凄いっすね。ラークさんって魔術師なのに剣技もイケるんすか」

 シジェが感嘆の声を漏らす。

「お兄ちゃんが散々手合せに付き合わせてたらしいから、勝手に身に付いたって言ってたなあ」

 ファーナが昔聞いたラークの愚痴を思い出して言った。

「あれでも、先生非力な方だよ?うちのお兄ちゃんはすごい大剣振り回すんだから」

「…正直、竜人と人間を比較しない方がいいと思うんだが」

 ラズリが冷静にツッコミを入れる。

「うーん…、そう?」

 ファーナは隣のダタに問いかける。

「そうですよ。姫だって、類稀な格闘センスをお持ちではないですか」

「…なんかその言い方、引っかかるんだけど…」

 少し不満そうな声を上げる。ふと気づくと、カティスとラークが2人そろってこちらの方に歩いてきていた。

「あれ?もう終わり?」

「ああ。取り敢えずはな。これを毎日継続することが大事だな」

「…ええー…」

 面倒そうにカティスが呻く。

「それにしても、カディ殿も随分なお手前で。一体どこで身に付けられたのです?」

 ダタが不意にカティスに問う。少しバツが悪そうに、カティスは頭を掻いた。

「あ?いや、我流だけど…」

「あー、ダタ!そういえば、ダタも色々身に付けてるよね?!どこで習ったの?」

 話題を変えようと、ファーナが割って入った。ダタは一瞬首を傾げたが、ファーナの問いに素直に答えた。

「ウィンディアに諜報員の養成機関がありまして、そこで…」

「ウィンディア…。へええ、行ってみたいなあ、どんなところ?」

「国土の殆どが山岳地帯なので、あまり人口は多くありません。ですが…高い山から見渡す景色は、素晴らしいですな」

「そっか…。いつか行けるかなあ…」

 目をきらきらさせて、ファーナはダタの話を聞く。

「じゃあ、俺、向こう行くわ」

 その隙にカティスは船内へと向かう。その様子を不思議そうにラズリは眺めていたが。

「…ん?」

 ラークに手招きされて、ファーナ達から少し離れた場所でひっそりと耳打ちされる。

「…アイツの…カティスの素性には触れないでくれ。この船で私とファーナ以外に知っているのはお前だけだ。…余計な混乱は招きたくない」

 その言葉にラズリははっとした。

「ああ、なるほどな。合点がいった。けど、そのうち知れることになるんじゃないのか?」

「それはその時だ。知られなければそれで構わない」

「ふーん、まあ、解ったよ。気を付ける」

「…済まないな。それじゃあ」

 そう告げてラークも船内へと向かおうとした時。

「…ん?」

 ラズリが北の空に何かを見つけた。

「…鳥?いやあれは…。ラーク殿!」

 既に身体を逆側へ向けていたラークに声を掛けて呼びとめる。

「どうした?」

「あれ…昨日放った木製の文書鳩じゃないか?」

 そう言ってラズリは空を指さす。その傍までラークも歩み寄り、指差す方向を見つめるが。

「…?見えないが」

「おれ、視力いいから。その内見えてくるよ」

 そんなことを言いながら空を見上げている二人に気づき、ファーナとダタ、シジェも近寄った。

「…あれ?戻ってきたの?」

「いや、そうじゃない…ヘディンからの文か」

「ええっ?!」

 ファーナが声を上げる。

(お兄ちゃんの…)

 きっと自分に対してじゃない。ラークに対する手紙だとは重々承知だった。けれど、胸の鼓動が一段と高鳴る。

 やがてラークの手元に、昨日飛ばしたものと同じ形をした木製の伝書鳩が舞い降りた。

「すごい…。本当にその人のところに届くんすね」

 シジェが感嘆の声を上げる。その横でラークは手紙の宛先を確認した。自分宛てと…

「…ファーナ、お前宛にもあったぞ」

「えっ…」

 無造作に手渡された小さい紙。ますます胸の鼓動が高鳴る。

「…部屋で読め。何が書いてあるかわからんからな」

 ファーナの顔がみるみる明るくなっていく。

「う、うん!じゃあ私先に行くね!」

 バタバタとファーナは自室へと駆けてゆく。それを渋い顔でラークは見送った。

(…これまで何度も機会はあったのに、ファーナには手紙を書こうとしなかったアイツが何故…?)

「ラーク殿?どうかしたか?」

 ラズリに声を掛けられてハッとする。

「いや、何でもない。…私も部屋に戻って手紙を読むことにする」

 そう言って、ラークもファーナの後に続いた。

(自分の手紙に、その答えがあるかもしれない)

 妙な不安を覚えながら、ラークも船内へと消えて行った。

 

 胸の鼓動は部屋に入っても高まったままだった。後で演技だったと解ったとはいえ、一時は嫌われてしまったのではないかと思っていた最愛の兄からの手紙だ。

(…き、緊張する…)

 ベッドに腰かけ、深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせる。

「あーっ、何か怖いー…」

 そのまま後ろに倒れ、ベッドの上でごろごろと転がる。ひとしきりそうした後、意を決してすっくと立ち上がった。

「ゴロゴロしてたって駄目だよね!よしっ」

気合を入れ直してまたベッドに腰掛け、綺麗に折りたたまれている紙を恐る恐る開ける。

『ファーナ、息災にしているか。ラークから聞いていると思うが、あの時お前に剣を向けたこと、演技だったとは言え申し訳なかったと思っている。許してほしい。

 すぐに再会することは難しいかもしれない。ただ一つだけ。俺は何があっても、お前を嫌いになんかならない。お前はそれを信じて生きて行って欲しい。

 きっと、お前と再会する時は、お前も大人になって、綺麗になっているんだろうな。その時を楽しみにしている』

「――っ」

 涙がポロポロと流れてくる。見慣れた筆跡。優しい言葉。タブーを犯した今でも、『嫌いになんかならない』と言ってくれるその想いが嬉しくて、有難くて仕方がなかった。それも、誰かの伝言ではなく、他ならぬ兄自身の言葉で。

いつまた会えるか解らない。けど、その日を楽しみにしてくれている。

「お兄ちゃん…私も…会いたい…。大好きだよ…」

 消え入りそうなか細い声で、ファーナは嗚咽を漏らしながら呟いた。

 

(…ハサン様は、ヘディンにファーナの精霊術の適性の件を伝えたのか…)

 読んでいる途中の手紙から目線を外し、はあ、とラークは溜息を一つ吐く。ヘディンの文面は淡々としていた。どこが事務的でもある。少し怒っているようにも感じられた。今このような状況でなければ、特に知らなくてもいい話だったのに。

(それよりも)

 また目線を手紙に落とし、続きを読み進める。

(…『精霊の民』か…。確かに、そう考えれば合点が行くが、そんなことがあり得るのだろうか…)

 ヘディンがファーナに手紙を書いたのは、こういう懸念を抱いたからなのだろうと、ラークは確信した。これが真実であれどうであれ、何があっても自分は味方だと、そういう趣旨の手紙をファーナに送ったに違いない。

(離れていても、護るべき大切な妹…か。変わらないな)

 苦笑を浮かべる。その愚直なまでに真っ直ぐな気持ちは羨ましくもある。しかし、その直後に書いてあった文面を見て、ラークの表情は険しくなった。

(…『白天使』の声…だと?)

 『堕天使』がいるのだからいてもおかしくないだろう、などと書いてあったが、歴史研究を生業とする、いや、それ以上に、黄金竜の血を引くラークにとっては、そんな曖昧な言葉で整理するわけにはいかない。

(五百年の時を経て生きている…?天教では天界に帰ったとされていたが、まさか…カティスと一緒でどこかに封じられているとでも…?)

 だとしたらどこにだろう。『白天使』の声を聴いたというあのサリエルという少年なら知っているのだろうか。

(だがもし、『その時』が来るとするなら、私は――)

 ラークは天井を見上げ、虚空を睨んだ。

 

 昼下がり。初冬の柔らかい日差しが眠気を誘う時間だった。

 その眠気をこらえながらヘディンは執務室で地図を睨む。魔獣の発生源はどんどん首都ハルザードに近づいてきている。

(軍の編成は済んだし、後は号令をかけるだけだが…)

 そんなことを考えていると、不意に扉がノックされた。

「…ヘディン様、今よろしいでしょうか?」

 扉の外から聞こえた声に眠気が飛んだ。サリエルだ。

「ああ、構わない」

 ヘディンが声を掛けると、「失礼します」という挨拶とともに、いつもと同じ神官服に身を包んだサリエルが入室してきた。

「サリ、どうした?」

 しかし、明らかに様子がおかしかった。どこか空気が張り詰めている。また『白天使』のお告げでもあったのだろうか。

「あの…。ファーナ様は、無事なんですか?本当に」

「え?…ああ、ダタの報告によれば元気みたいだけど」

 ヘディンは顔を顰める。ファーナの事、『堕天使』の事、どちらかに気がついたのでは?と勘ぐる。

「それはいつ、どこからの情報ですか?」

「…日付が10日ぐらい前。リクレアのバイエルからだったが」

 とりあえず聞かれたことだけ答えることにして、出方を窺う。

「リクレア…。南の方なんですね。目的地は…」

「ダタの勘、みたいだが…フォーレスだ」

「フォーレス…?」

 そこでしばらく沈黙が流れた。ヘディンにはその沈黙がやけに重く感じられた。そうすることしばし。沈黙を破ったのはサリエルだった。

「…あの、ヘディン様、僕…しばらく旅に出たいと思うんです」

「どこへ?」

「まずは…故郷へ。何か掴めるかもしれない…そう思うので。その後、ファーナ様を…追いかけます」

「サリ…」

 ヘディンは、サリエルの申し出に渋い顔をする。

「魔獣が蔓延る物騒な世の中です。僕の力でファーナ様を護れるのなら…追いかけて、その御身をお守りしたいんです。どんな不幸からも、災厄からも。ヘディン様はお立場があって動けない。でも、僕なら護りに行けるんです」

 純粋で、真っ直ぐな、真摯な申し出だった。何の裏事情がなければ、二つ返事で送り出したいところだ。しかし、そうはいかない事情がある。

「厳しい旅になるぞ。それでもか?」

「はい」

「命を落とすかも知れない…逆に、誰かの命を奪うこともあるかもしれない。それでもか?」

「はい」

 毅然と返事を返すサリエルに対して、ヘディンの表情は渋いままだった。

「それが、ファーナの命であってもか?」

「っ…!」

 サリエルの表情が引きつる。今にも泣きだしそうだった。しかしそれをこらえて、サリエルは言葉を紡ぐ。

「…で、でも!ヘディン様だって、『このままの状況ではいけない』って思ってるんじゃないんですか?僕が…僕なら『何とかできる』なら、何とかしてみたいんです!」

(…っ!お爺様か…!)

 その言葉に、ヘディンはサリエルが事実を知った事を確信した。しかし、敬虔な天教徒、しかも『白天使』に連なる者に、自分の本懐を告げるわけにはいかない。表向きは、『堕天使』は滅ぼすべき相手。天教世界では邪悪とされているのだ。

 それに、サリエルをこのまま城に残せば、確実に『白天使』の声を聴く者として、祭り上げられ、ヴィオルの格好の道具にされるだろう。

(…なら、いっそのこと…賭けてみるか)

 ヘディンは心を決めてサリエルに答える。

「…分かった。でも無理はするな。話をしておくから、明日号令をかける魔獣討伐軍の一隊に途中まで着いていけ。そこからは…お前の実力と運次第だ」

 その言葉に、サリエルの表情が明るくなる。

「はい!ありがとうございます!」

 心底嬉しそうな笑顔を浮かべて、サリエルは深々と礼をした。その様子を見て、ヘディンは逆に不安に駆られる。

「それと一つだけ忠告しておく。…ファーナが帰りたがらないようだったら、無理に連れ帰そうとするなよ。お前がファーナに嫌われるぞ」

 少し茶化したようにヘディンは言う。現状の形を崩されたくない。そんな願いを言下に込めて。

「…そ、それもそうですね…」

 そうと気づかないサリエルと、互いに顔を見合わせて苦笑する。そして、サリエルは居住まいを正し、改めてヘディンに向き直った。

「…それでは。ヘディン様、今まで僕を助けてくださってありがとうございます」

 丁寧に、深くサリエルは頭を下げた。それにヘディンは怪訝な顔をした。

「なんだ?また戻ってくるんだろう?そういう言葉は言うもんじゃない」

「いえ。…言っておきたいんです。大切な人が目の前にいる。その時に言わないと、また…いなくなってしまうから」

 儚げな笑顔を見せてそう言って、もう一度、深く礼をし、サリエルは静かにヘディンの元を立ち去った。

 

 温い夜風が頬をなでていく。甲板に出たラズリは、船の先端でじっと進行方向を見つめる一つの影を見つけた。

「姫さん、どうした?」

 声を掛けられた人影が振り向いた。

「あ、ラズリさん…」

 心ここにあらずな表情だった。それにラズリは妙な不安を抱いた。

「夜だし、こんな所にいたら危ない。部屋に入った方が…」

「うん…。何か…誰か呼んでる気がして」

「呼んでる?」

「このずっと先から…。胸騒ぎみたいな…変な感じがして」

 そう言うと、ファーナは不安げな表情を浮かべ、また水平線の彼方へと目を向けた。

「胸騒ぎ…?不安なのか?その声が」

「解らない…。けど、行かなきゃいけないって気はするの。何があるのかは解らないけど」

 ラズリは一つ溜息をついて、ファーナの肩にぽんと手を置く。

「おれ達がいる。大丈夫だ。…何なら今日はおれと一緒に寝るか?」

「えっ!」

 その言葉にファーナはどきまぎする。

「ははっ、冗談だよ。…でも、何かあったらいつでも言ってくれ。…姫に元気がないと、皆不安になる」

 その言葉に、ふっとファーナは笑顔を浮かべた。

「うん…。ありがとう」

「それじゃ、戻ろう」

 ラズリはそのままファーナの背中を押して、船室へと歩き出す。

(この先…バイタル島があるくらいだけど…姫と何か関係が…?)

 一瞬よぎった疑問はすぐに忘れ去られたが、その予感は直に現実のものとなることを、この時は誰も予想していなかった。 

 


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