第19話

 湿度と熱気でむせ返るような、シャクーリアの朝。

 いくら暑いのが得意と言っても、流石に耐えられなくなってファーナは目を覚ました。屋敷の部屋の数に限界があったため、ファーナは他の女性達と相部屋、しかも雑魚寝だった。

 外に出れば幾分か涼しいかもしれない。そう思ってファーナは寝ている人たちを起こさないよう忍び足でバルコニーへと向かう。カタリと小さい音を立てて扉を押し開けると、眼前に白い城が見えた。

「あれが…シャクーリアのお城…」

 抜け道を通ってこの屋敷に来て落ち着いた頃には、既に日が落ちていて外の様子が分からなかったが、抜けるような青空と、眩しいぐらいの白亜のコントラストに、思わずエルガードを思い出す。

「おはよう、姫さん。ゆっくり眠れたかい?」

 声を掛けられた。隣のバルコニーに目線をやると、ラズリがこちらを見ていた。

「はい。…ただ日が昇ると暑くて」

「そうだな。北から来たんだ、仕方ないよな。…あ、後で変装用の服渡しに行くから、それ着て集合してくれ。その紅い髪は目立って仕方ない。…天教に惚れ込んでるリーテルには、尚更な」

「分かりました」

「じゃあ、また後でな」

 そう言って、ラズリは部屋へ戻っていった。それを見届けて、ファーナは再び白亜の城を眺める。

「…お兄ちゃん…。これから私がすることは正しいことよね…?」

 胸に去来した不安をポツリと口にした。

 

 朝食を採り終わり、作戦に参加する全員がデリス邸のエントランスホールに集まった。街中で陽動する部隊に30人。城への突入部隊はラズリやファーナを含めた9人の計39人だ。

「カディ、おはよう」

 ラズリに貰った服を着込んだファーナは、階下に降りてすぐカティスに声を掛けた。

「…ああ、服貰ったのか。そっちの方が目立たなくていい」

 少し薄汚れた、黄土色の布の服だ。同じ色のターバンを頭に巻いて、赤い髪を極力中に入れている。

「こういう時はいいけど、普通に街中歩くんだったらかえって目立つわよ」

「まあ…そうだな。けどその服はこの先もあった方がいい。何かと問題があるからな」

「分かった…あ、始まるね」

 ラズリとデリス、ミランダが全員の前に立つ。雑談をしてざわめいていた空間が一瞬で静まり返った。

「皆、ここが正念場だ。この作戦を成功させれば、生活を、信仰を取り戻すことが出来る。アジトに残してきた家族に、いい話を届けられるよう、各々奮起して欲しい。…ただ、命だけは落とさないこと」

 ラズリの激に、おう、と一同が声を上げる。その後に、デリスが続いた。

「この国は水神さまの加護の元、長い歴史を刻んできた。それをただ一人の愚妃によって潰させるわけにはいかん。国を想うならばその思いを刃に乗せろ。水神さまはきっと応えてくださる」

 また全員から、おう、と声が上がる。最後にミランダが静かな通る声で話し始めた。

「…水神さまは我々と共にあります。ですから、愧じることなく戦いましょう」

 一層大きな声が上がる。その後、全員が持ち場へ散っていった。

 

 遅い朝食を済ませて、ラークは一人宿の一室で、船内で読んでいた歴史書を流し読みしていた。最後の頁にあった年表を下っていき、ある一文にふと目が留まる。

(…ん?姫君がいたのか、この国には)

 計算すると、15年前に、当時5歳だった王女が海に落ちて死んだとある。その2年後に現在の少年王・ツイードが誕生したとあった。そして、その父であった先王・タレスが亡くなったのが3年前。

(妃が毒を盛った…と考えるのはさすがに穿ち過ぎか?)

 少なくとも、天教国家に急激に様変わりをしたのはその頃からだ。そう考えられてもおかしくない。

「…と、そろそろ時間か」

 部屋の時計を見ると、時刻はもう二刻で昼飯時という頃だった。ラークは荷物を纏めて宿をチェックアウトし、打ち合わせどおりに城門へと向かう。天気も良いというのに、城へと到る大通りはやはり人影がまばらだった。小路には、作戦に備えて潜んでいるラズリの部下の顔がちらちらと見えた。

 特に何事もなく城門前まで辿り着くと、門の前にいた二人の衛兵に声を掛けた。

「私はエルガードのラークと申します。諸国周遊の旅の途中に寄らせていただいたのですが…王族の方に目通り願えるでしょうか」

 二人の衛兵は顔を見合わせて、面倒そうな表情を浮かべながら一人が中へと入っていく。数分後、衛兵が慌てた様子で戻ってきた。

「お待たせして申し訳ありません。第一王妃のリーテル様が是非にと…」

 丁重にラークは中へと案内された。その一部始終を、向かいの建物の屋根の影からダタが観察していた。

「予定通り。各自行動に移られたし」

 あらかじめ決めておいた合図を手信号で送る。さほど遠くないところに配置されていた隠密部隊がそれぞれの持ち場に密やかに走る。

「…おっ、動いたか」

 街の広場脇に待機しているオーガスが生唾を飲んだ。

「いいか、せーの、でやるぞ」

 

 入って早々、謁見の間までの大階段の脇には豪奢な絵画や彫刻が並べられていた。―それも、天教様式のものばかりだった。ラークの胸には嫌な気分だけしか浮かんでこなかった。

「リーテル様、ラーク殿をお連れしました」

 大きな扉が開かれると、その先には、数段先の玉座にゆったりと座る細身の淑女がいた。それを見て、ラークは静かに進み出て、いくばくか離れた位置で膝を折って礼をした。

「エルガードで魔術師をしております、ラークと申します。お目通りかない、光栄の極み…」

 慇懃無礼に当たってもおかしくないほど遜って挨拶をした。それを見てリーテルの青い目が細くなる。

「お顔をお上げになって。『光の貴公子』とまで言われる貴方のお顔が見られなければ、目通りを許した意味がありませんわ」

 心の中で舌打ちをして、ラークはゆっくりと顔を上げた。

「まあ、本当にお美しいのね…。金の髪が光を纏っているようで…。まるで『天使様』のよう」

(…一応、紛れも無くその『天使』ではあるが…)

 少し困ってからラークは口を開いた。

「…いえ、恐れ多いことです。『天使』などとは…」

 謙遜してラークは笑う。それが彼女の胸にさらに響いたようだった。

「まあっ…。もっと、もっと近づいてもよくってよ。…ああ、本当に美しいわ…」

 言われるがまま、ラークは後数歩という所までリーテルに近づいた。濃い化粧をし、様々な宝石を散りばめるように身に着けている。

「リーテル様も、お美しいですよ」

 精一杯の世辞をラークは吐き出した。きっと自分の目は笑っていない。だがそれが精一杯だった。しかし彼女はそれで満足したようだ。

「よく目が肥えてらっしゃるわ。さすがですわね。…ところで、わざわざこのような地へ来て何を?」

「見聞を広めるため、世界周遊の旅をしております。我が家では魔術と歴史を古くから研究しておりまして、今回もその一環として」

 嘘は一つも吐いていない。ラークにとってもこの旅は願ったり叶ったりなのだ。

「何て素敵なこと…。この国はどう貴方の目に映りまして?近代化を推し進めてきたのよ。出来映えはいかがかしら」

「近代化…ですか」

「ええ。世界の大国、カルディアに近づくために、精一杯の努力をしてきましたのよ?」

 ラークは沈黙した。好意的に解釈するならば、彼女も国を思って改革をしてきたとも言える。…しかしそれが民のためにならないから、こんなことが起きている。

「…カルディアの友人が聞いたら、喜びましょう。ですが…カルディアは元より『天使』達が作り上げた国。シャクーリアとはまた事情が異なるかと思いますが」

 きっと、この場にヘディンがいたら、同じ事を言う。そう思ってラークは続けた。

「道中、穏やかな波に揺られながらここまで参りました。ここシャクーリアは海に愛された国。異国…いや、異界の『天使』が足を踏み入れては、古来の海の神々もお怒りになるのでは?」

 リーテルの顔が怒りに歪む。

「わたくしの努力がよろしくないとおっしゃりたくて?」

 言葉に怒気が含まれている。取り巻きの衛兵も、手に持つ槍に力を込める。しかしラークは平常心を保っていた。

「…ここ数年、日照りや不漁が続いているとも聞き及んでおります。…あまり『神』と呼ばれる者たちを軽視しない方がよろしいのでは、と申しているのです」

 怒りに任せてリーテルが立ち上がる。

「貴方は…!な、何が言いたいのです?!」

 その時、扉の外から悲鳴が聞こえてきた。全員がはっとして扉のほうを見やる。勢いよく扉は開かれ、衛兵が転がり込むように入室してきた。

「ま、街中で大規模な爆発が…!」

「火事か何かでしょう。何を慌てる必要があるのです」

「そ、それが、天教の教会が悉くやられておりまして…」

「な、何ですって?!」

 その言葉にリーテルは狼狽する。

「か、神への冒涜です!さっさと騒ぎを収めてきなさい!全兵力を以って!」

「は、はい!」

 遠くで、ガチャガチャと甲冑の鳴る音が聞こえ、遠くなっていく。その一部始終を、冷ややかな目でラークは眺めていた。

 

 集団で兵隊が城下町へと駆けて行く。それを建物の物陰からラズリは覗き見ていた。

 連れているのはファーナやカティスを含めた突入部隊9人。兵がさらに出てこないことを確認すると、ラズリは後ろを振り返った。

「カディ殿、ミランダ。神殿は二人に任せる。…デリス殿の部隊はツイード王を探し出して保護。…いいか、一瞬でカタをつけるぞ」

 9人は一斉に飛び出した。守備に残された数人の兵士がこちらに気付く。

「て、敵襲…」

 叫ぶ前に先頭を走るデリスが殴って気絶させる。堂々と正門からまかり通り、大広間で散り散りに走っていく。

「カディ、気をつけてね!」

 ファーナがカティスに声を掛ける。

「はっ、てめーの心配しろよ」

 左手を軽く上げて、カティスとミランダは右前方の階段を降っていく。ファーナはラズリと共に、長い謁見の間への階段を駆け上っていった。

「…天教の教会ばかりが…ですか」

 開け放たれた状態のままの扉を眺めながら、ラークは呟いた。事が上手く運んでいるようだ。直にここにラズリが来るだろう。その前に、ラークはどうしても聞きたいことがあった。ラークはリーテルに向き直った。まだ狼狽の色を隠せない老婆が、視界に入る。

「先程の続きですが…。そもそも、何故天教を強く推進されてきたのです?私はそれを尋ねに参ったのです。…一つの国が、これまでの歴史を棄てて大きく舵取りを変えるきっかけは何か…。歴史研究を行うに当たって、非常に興味がありましてね」

 ふ、とリーテルは笑みを浮かべた。

「『天使』様がこの地に舞い降りたからよ。それで悟ったの。実体のしれない水神さまではなく、天教こそが、唯一無二の真実だということをね」

 誇らしげにリーテルは語る。

「『天使』が舞い降りた…?」

 苦い気分をラークは覚えた。きっとカルディア王家の誰かだ。戦いではなく心を攻める。それは天教を布教するにあたってよく使われた手段なのだ。

「まあいいでしょう。もう一つ…。奴隷商売船の事をご存知ですか?」

 その言葉にリーテルの眉がピクリと動く。

「いいえ、存じませんわ」

「そうですか…。ここに来る道中出くわしましてね。近代化を目指す国の姿としてはあるまじき行為だと思います。貴女が知ろうが知るまいが、事実として存在している以上、取り締まってはいかがかと」

 リーテルの口元がわなわなと震える。その様子をラークは冷静に見つめていた。

(…明らかに知っているみたいだが…これは彼女の指示の元行われていることか?それとも…)

 第三者の意思であれば、一体何者なのだろうか。

「…まあ、ご忠告はありがたく受けさせていただくわ」

 ようやっとリーテルの口から言葉が出てきた。相当苛立っている。

「恐縮でございます」

 その言葉に深々とラークは頭を下げた。遠くから足音が聞こえる。―どうやら、自分の役目はここまでのようだった。

「そこまでだ!悪妃リーテル!」

「な…!」

 蒼い髪の青年がラークの後ろから現れた。ラークも驚いたふりをして後ろを振り返った。ラズリの後ろの赤い瞳の少女の姿を確認して、ほっと胸を撫で下ろす。

「その紺青の髪と瞳は…!な、何故」

 リーテルがラズリの姿を見て目を見開く。まるで亡霊でも見ているかのような態度だ。

「ん?海賊ラズリの名は、お妃様にも知れ渡っていたのかな?水神様に成り代わってあんたを倒しに来たんだ。…覚悟決めてもらうよ?」

 そう言って、ラズリは右手に持つ剣先をリーテルに向けた。

 

 カティスとミランダは階段を駆け下りていた。目指すは地下三階の神殿。階段には兵は配置されておらず、難なく目的の階まで辿り着けた。

「このまま何もなけりゃ、楽なんだがな」

 自分をミランダと共に神殿へ、と配したラズリの思惑が解らない。カティスは妙な気分を抱いていた。

「何も無いなんてことは、多分無いわ」

「…まあ、そうだろうなぁ…」

 もしかしたら、この連中は『多少なりとも』自分の事を知っているのかもしれない、とカティスは考えを巡らせた。オーガスかシジェがクーラントでの一件を話したところで、大した情報は伝わっていないはずなのに。

 そんなことを考えながら走っていると、目の前に曲がり角が見えた。その手前で止まり、そっと角の向こうを窺うと、幾分か離れた所に大きな扉が見えた。確かに、外の騒ぎにも関わらず、兵が配備されていた。目測で5人程度だ。

「…確かにいるな。少し下がってろ。片付ける」

「お願いね」

 カティスは剣の柄に手を掛けて一人走る。それに気が付いた兵士がこちらに向かってくる。

「貴様、何者だ!」

「賊がわざわざ名乗るかよ」

 踊るように向かってきた四人を一瞬で切り払う。そして、扉の前で仁王立ちをしている赤い髪の男に向かって剣を繰り出した。

 ――ギィン!

 鈍い金属音が閉鎖された空間に響く。相手の男も剣を出し、鍔迫り合いになった。

「…へえ、俺とサシで出来るなんてな」

 感心したような声をカティスは出した。

「そんなことだろうと思ってね。ここは通しませんよ」

 赤い長髪を一本で編みこんでいる。後姿だけ見れば、女性と間違うかもしれない。一度剣を引き、間合いを取るため後ずさりした。後ろから、ミランダが駆けつけてカティスの一歩後ろで囁いた。

「…彼、多分赤竜よ…。後ろの扉から、火の精霊の力を感じるの。水神さまの力が相殺されて表に出てこれないような格好になってる」

「…やべぇな」

 カティスは薄笑いを浮かべた。力で負けるという心配ではない。もしカルディアの王族なら、『自分の姿』を成人の儀の際に見ている可能性がある。ファーナの手配書を見る限り、自分の存在は伏せられたままだ。気付かれて騒がれでもしたら面倒だ。――そう瞬時に悟った。

「ふふ、怖気つきましたか?彼女の言うとおり、私は赤天使が一人、カナンと申します。この地に唯一神イーレム様への信仰を授けるために参った者です」

 少々演技掛かった物言いだ。優雅に貴族風の礼までした。カティスとミランダは揃って眉間に皺を寄せた。

「何だか…随分雰囲気が違うものね」

 ミランダは暗にファーナと比較してカナンを見た。彼女が特別なのか、それとも彼が変人なのか。

「誰が怖気づくかよ。色々と厄介なんでな、さっさと消えてもらうぜ」

「なっ…!」

 猛スピードでカティスは駆ける。一瞬で間合いを詰められたカナンは、振りかざされた剣筋を何とか受け止めるのが精一杯だった。金属音と共に、柄を握る右手に痺れが走る。

「っ~…!」

 涙目になって下を向き痛みを堪える。カティスはカナンの首の裏を剣の柄の先で小突いて意識を失わせた。そのまま、膝から崩れるようにカナンは倒れた。

「…凄いのね」

 一瞬の出来事に感心しながらミランダが近づいてくる。カティスはカナンの服の裾を引きちぎり、後ろ手にして縛り上げる。その作業をまじまじとミランダは見つめていた。

「本題はこっからだ。…解けるか?」

 作業の手を休めないままカティスが問う。魔法で焼かれないように、口まで塞いでしまった。あまりの手際のよさに驚きながら、ミランダは答えた。

「…多分。もうこれ以上邪魔が入らなければ。…精霊達を呼び寄せてみるわ」

 ミランダは目を閉じ、意識を集中させる。少しずつ、空気に湿り気が出てくる。

『大気に満ちたる母なる水よ、かの場所に集いて焔を鎮めたまえ』

 ミランダの手が扉へ伸びる。手の先に大きな水の玉が作られたかと思うと、バシャっと音を立てて、扉に掛けられた。すると程なく、扉がひとりでに開いた。

「…よかったわ。私の魔力でも何とかなったみたい」

 ほっとして、歩みを進める。

「ま、こいつにそれほどの力が無かったってことだな」

 目覚めた時に出会ったファーナの兄の方が、もっと苛烈な力を宿していた。あの時はファーナを逃がすのに相当手加減していただろうが、本気でやり合うとなるとこうはいかないかもしれない。

 そんなことを考えながら扉をくぐったカティスは、その先の光景に息を呑んだ。南国なのにも関わらずひんやりとした空気を感しる。周りは洞窟になっており、長い降り階段の先に小さな祭壇があり、洞窟の先には海が広がっている。

「海と繋がってるのか」

「勿論よ。…この先の海の底には水神さまが眠っておられるから」

 話しながら二人は階段を下る。洞窟に声が響き渡る。

「ああ…そういや、『信仰を取り戻す』って言ってたな。…で、これからどうするんだ?」

「そうね…取り敢えず祭壇の所まで降りましょう」

 二人は祭壇の前まで降り立った。そこでカティスは違和感を覚えた。

「…何だ?この先の空間…閉じられてる?」

「やっぱり…そうなのね」

ミランダの言葉にカティスははっとした。

「は…?」

「私たちが追い出された後、リーテルが、水神さまがおられる空間を封じさせたって、水の精霊達から聞いてたの。封印を解く方法がないか、色々調べていたら、丁度精霊達から貴方の話が聞こえてきてね…『渡りに船』っていうのかしら」

 はぁ…とカティスは溜息を吐く。自分をここに寄越した理由を悟って脱力した。

「何でもお見通しってわけかよ」

「ふふ。黙っててごめんなさいね。普通に頼んでも難しいと思って交渉させてもらったの。貴方ならきっと引き受けてくれると思っていたのよ、『堕天使』さん」

 茶化すような口調でミランダは言った。そこに悪意は感じられなかった。

「意地の悪い奴等だ…。で、解いちまっていいのか?一緒に変なモンが飛び出るってならゴメンだが」

「大丈夫…って精霊達は言ってるわ」

「それが信用ならねぇんだよ。精霊は自分達さえよけりゃそれでいいんだからな。…まあいいか」

 カティスが一歩前へ進み出る。

『此方に集いし時と空を統べし移ろいたる者達よ、戒めを解き彼方へと離散せよ』

 空間が開放されるのをカティスは感じた。後ろで控えていたミランダも、あっと小さく声を出した。

「…水神さまの力が…どんどん…」

 洞窟の外の水面が波立ってくる。ドン、という大きな音と共に、そこから水柱が立ち上がった。

「ああ…これで、ラズリは…」

 恍惚の表情を浮かべながらミランダは呟く。目から涙が一筋頬を伝って流れていく。

「…ラズリが…なんだって?」

 カティスは怪訝な顔をする。嫌な予感とも言えない妙な感覚がする。そして自分はその感覚を――知っている。

 昨日のミランダの言葉を思い出す。ラズリの運命。自分の与り知らないところで人生を握られている――。

 その言葉を思い出し、駆け出そうとしたところに、ミランダが晴れやかな笑顔でカティスの腕を引っ張った。

「…行きましょう、ラズリの元へ。後は水神さまが導いて下さるわ」

 

「まさか、あなたが生きているなんて…」

 ラズリの姿を見て、リーテルは明らかに狼狽し、玉座を伝って後ずさる。

「…おかしいよ。剣を突きつけられて怖がってるって感じじゃない」

 ファーナがラズリに囁く。ラズリもその言葉に頷いた。

「生きているって…どういうことだ?おれは一度も死に目になんかあったことはないが」

 困惑してラズリは剣を下げた。

「ふ、復讐しに来たの!?あなたを海に落とした私を殺しに来たの…?」

 そう言ってリーテルは玉座の影に隠れ、怯えきった目でラズリを見る。ラズリは困りきった表情で、口を開いた。

「何か人違いしてないか?おれはアンタがこの国をメチャクチャにしてるから倒しにきたんだよ。アンタの信仰は信仰でいい。けど、ただの一般市民にまで押し付けて挙句迫害するなんて非道は許しちゃおけない。国ってのは権力者だけのモンじゃねえんだ、って教えに来ただけだ」

 ラズリは周囲を警戒しながら玉座に近づく。それにまたリーテルは怯える。

「…わ、忘れた振りしてもムダよ!その髪、その目…。死んだあの人にそっくりだもの!」

 怪訝な顔をしてラズリは足を止める。丁度ラークの目の前だった。

「…ラズリ、聞いたほうがいい。…多分嘘は吐いていないぞ」

「貴方まで…一体どうしたって言うんだ」

「この国には15年ほど前に海に落ちた姫がいるという。…もしかして」

 ラズリの顔が硬直する。ラークに向いていた視線をリーテルに移した。

「な…」

「えっ…あれ、ラズリさんって、女の人…?」

 扉の近くに居たファーナが小声で周囲に確認する。

「…そうですよ。なめられたくないって言って、男の振りしてるんです」

「お、男の人かと思ってた…」

 ファーナは衝撃を受けたと同時にがっかりした。どおりで綺麗すぎると思った。しかし、もしラークの話が本当だったら、大変な話だ。

「そんな憶えはない。おれはずっと海賊だ。それ以外の記憶なんてないぞ」

「小さい頃の話だ。覚えていなくともおかしくはない」

「で、でも…っ!」

 否定しようとしてふとラズリは思い出した。いつの頃からか繰り返し見る、あの海の中で溺れる夢は、夢ではなくて遠い昔の記憶なのではないか?

「まさか…おれは…」

 その時、遠くから、低い、ゴオオオという音が鳴り響いてきた。異常を感じ、全員が扉の方を向く。やがて、水の束がまるで蛇のように階段を駆け上ってくる。

「…あ、あれは…?!」

 それと平行して、カティスとミランダが駆けてくる。

「カディ?!…わっ…」

「ファーナ!」

 猛スピードで駆けてくる水の束を避けるため、ファーナはとっさに受身を取った。自分の胸元すれすれを水は走り、ファーナを心配して駆け寄ったラズリの前でぴたりと止まった。

「…へ?」

 水の塊の先頭部分は、まるで竜の頭のような姿をしていた。

「まさか…水神さま…?」

 信じられない、という顔でラズリは水の束を見る。

『我等をぬしらはそう呼ぶ。我等はこの世界に満ちたる数多なる水の権化だ』

「…本当に…いたんだ」

 ラズリにはその声がはっきりと聞こえた。恐る恐る起き上がったファーナは、ラークの傍によろよろと歩く。

「…先生、聞こえる?私は全然」

「私もさっぱりだ。多分、ミランダとラズリにしか聞こえてないだろう」

『ぬしは憶えておらぬか。命を救った代わりに、ぬしの裡に我等の一部を宿させたことを』

「…え?」

 ラズリはぎょっとして胸に手を当てた。

「おれの中に…水神さまが?」

 その言葉に、扉近くにいたカティスは渋い顔をした。

『ぬしの裡より、この国を共に見て参った。あらゆるものに対する畏敬の念を忘れ、ただひたすらに天を望む者の姿…。我等は失望を禁じえなかった』

 はっとしてラズリはリーテルを振り返り見た。一層青ざめて震えている老婆の姿がそこにある。

「な…何よ!」

「水神さまはひどくお怒りだ。…人間に失望した、と」

 竜の頭がぐっと伸びる。リーテルのすぐ傍まで近づいて睨みつけると、リーテルはへなへなと地べたに座り込んだ。

「て、天使さまだって本当におられるのだから!わ、私は間違ったことなどしていないわ…!」

 リーテルは激しく頭を振る。現実を認めたくない。そんな気持ちがひしひしと伝わってくる。

「…いいえ、『天使』なんて実在しないわ」

 ファーナが静かにリーテルに近づく。頭に巻いたターバンを、ゆっくりと剥がしていく。そこに現れた燃えるような赤い長髪に、リーテルは目を丸くした。

「おい…」

「先生、ここは私に任せて」

 渋い顔でラークはファーナの後姿を見つめる。そんなことはお構い無しに、ファーナは腰を抜かしたリーテルの目線に合わせるように屈んだ。

「あ、貴女は…」

「私は、貴女方が『天使』と呼ぶ存在。でも、私はそうは思わない。皆と一緒に、悩んだり、笑ったり、悲しんだり…他の人々と同じように暮らしてる。『天使』という、神様に近い存在が、そんなに俗っぽいことするかしら?」

 リーテルの顔はこわばったままだった。その様子を見て、ファーナはそのまま続けた。

「ここに来る時、私は海を見て思ったの。果てがなくて恐ろしいって。『天使』はこんな恐れを抱くものかしら?私も天教徒だから、最後の最後は天に還れるって思ってる。でも、こうして生きている今、周りにある様々なことに対して、畏敬の念も持っている。ただ天や救いを望むのではないの。この世界の大地で生きている今、大地に感謝しながら徳を積んでいかないと、最後に救いは現れない。天にも還れないわ」

「ファーナ…お前は…」

 ぽつりと、ラークが呟く。いくら小さな頃から異文化に触れてきたとは言え、ここまで天教以外の考えを取り込んでしまうものなのだろうか。

「私はそれを伝えたくてここまで来たの。…立って下さい。まだやり直せる。水神さまも、イーレム様も大事にすればいいじゃないですか」

 ファーナはそう言って手を差し伸べる。リーテルはその手をしっかりと握り返し、二人そろって立ち上がって、眼前に迫る水神をじっと見つめる。

『ほう、不思議な娘だ。地に足を着け、天を望むか』

 ラズリがその言葉をそっくりそのまま通訳して伝えた。しかしファーナは不思議だと言われて首を傾げた。

「そうかな?当たり前のことだと思うけど…」

「それが皆出来てりゃ、こんな事にはなってないさ」

 ラズリが苦笑して言い返す。そして、リーテルに向き直った。

「アンタが改心してくれんならそれでいい。おれはまた気ままな海に戻って外から眺めているよ。…水神さまも、ありがとうな。こんな人間の諍いに巻き込んじまったってのに」

 ラズリは水の表面を撫でてやった。竜の頭がリーテルの所からラズリの元まで戻る。首元を撫でてやると、満足気な声を上げた。

『何者であれ、全ては繋がっている。…何かあれば何時でも呼べ』

 水の束が後退して去っていく。それを見届けて、ラズリはふっと笑って見せた。

「…目標達成。さて帰るか」

 剣を鞘に収めて、ラズリは謁見の間を後にしようとする。ラークもそれに続く。ファーナもリーテルに一礼し、後を追う。

「…何をおっしゃいますか、ラズリ…いいえ、ユーノ姫様」

 扉の前で、ミランダが仁王立ちをして阻む。

「…それが、おれの本当の名前?」

 困ったような笑みをラズリは浮かべる。

「貴女には、この国を率いてもらわねば…」

「死人にそれはできないよ、ミランダ。それにおれは、約束を果たさないといけないからね」

 ラズリはミランダの言葉を遮って、後ろを振り返る。ファーナと目が合い、互いに頷いた。

「…何かあったらまた来るさ。君は君のあるべき場所で、頑張ってくれ」

「…姫様…」

 今にも泣き出しそうなミランダの肩を、ぽんと叩く。

「…皆も。まだ海賊やりたいなら付いて来てもいいけど、なるべくなら元の暮らしに戻ってくれ。じゃあな、結構楽しかったよ」

 ラズリと、ファーナの一行だけが、その場を立ち去った。

「…行ってしまわれたか」

 ミランダの後ろからデリスが、少年を連れて現れた。少年はリーテルの憔悴しきった姿を見て、慌てて駆け寄っていった。

「デリス殿、これで良かったのかしら。私は姫様をお留めできなかった…」

「いいんだ。色々とややこしくなる。姫様もそれをお考えだったのだろう」

 謁見の間の奥に二人は目を移した。

「ツイード様にも、きつい現実になる」

「そうね…。これで、良かったのよね」

 

 四人は城を出て、真っ直ぐにアジトまで走り抜ける。途中、あちこちから煙が上がってはいたものの、小競り合いは見かけなかった。兵も民も、顔を見合わせて何かを話している様子だった。

「…水神さまが現れたから、戦いどころじゃなくなったんだね」

「水神さまは、もしかしたらそれを見越して姿を現したのかもな…」

 デリスの邸宅の隠し通路を抜け、待ち合わせ場所として指定したラズリの船まで向かう。外に出た時には既に日が傾きつつあった。

「お頭、無事でしたか!」

 既に役目を終えて集まっていた工作部隊が、ラズリの顔を見て晴れ晴れとした表情を浮かべた。その中には、シャルやオード、ダタの姿もあった。それを確認して、ファーナはほっと一息ついた。

「ああ。皆、ご苦労だった。リーテルは水神さまの姿を見て、改心してくれた。これで、ゆっくりだろうが元の生活に戻るだろう」

 おおお、と大きな歓声が上がる。中には泣く者、抱き合って喜ぶ者もいた。

「…すごい…」

 その光景を見て、ファーナはぽつりと呟いた。それだけ彼等は不満を抱いていたということだ。カルディアにも、同じように不満を持っている人々がいるのかも知れない。そう思うと複雑な気持ちになった。

 歓声が落ち着くのを見計らって、ラズリは続けた。

「…そこでだ。アジトに残してきた者を迎えに行った後は…皆出来るだけシャクーリアに残ってほしい」

 全員がざわめく。ラズリは一つ咳払いをした。

「これからおれは、彼等をフォーレスに送り届けなくちゃならない。そういう約束をしたんだ。いつ戻ってこられるか解らない。それに、この国を想うなら、この国のために力を尽くしてほしいんだ。アジトに戻る前までに心を決めておいてくれ」

 未だざわめきが収まらない中から、声が飛ぶ。

「お頭、もう…今から降りて、シャクーリアに残っても?」

「ああ、構わない」

「…じゃあ。…お頭、絶対シャクーリアに戻ってきてくださいよ!俺、お頭のご恩は一生忘れません!」

 数人が別れを告げてそろそろと元来た道へと引き返していく。それを見て、ラズリは告げる。

「まだ時間はある。取り敢えずアジトまで引き上げるぞ」

 夕日が水平線に落ちようとしている。船は北へと進路を取っていた。ファーナ達一行は、ミーティングルームでようやく休息を取ることができた。

「姫様、ご無事で何よりで」

「ダタもね」

 ファーナはにっこりとダタに笑いかけた。

「…姫は、ちゃんと天教の何たるかを正しく説いておられましたよ」

 ラークも優しくダタに告げる。ただ、ラークの胸には妙な不安があった。

(それにしても、ファーナのあの言葉…。何年も前に彼女が見せた『あの事象』と何か関係しているのだろうか…)

「そうですか…」

 ラークの不安に感づくことなく、ダタは心底安心したように頷いた。その一連の会話を眺めていたカティスは、ふと水神さまの言葉を思い出した。

(『地に足を着け、天を望む』…か。どこかで、似たような言葉を聞いたような…)

 思い出そうとすると、ゾクリと悪寒が走った。思い出してはいけない、禁忌に触れたような感覚。

(…ちっ…またこれかよ…)

 右手で胸を鷲掴みにし、カティスは室外へと出て行く。その様子を不思議そうにラークが眺めていたが。

「ラーク殿」

 操舵室から戻ってきたラズリに声を掛けられ、追う事は出来なかった。

「ラズリ…いや、本名で呼ぶべきか?」

「いや、このままで構わない。…その、出来れば、貴方が知ってるおれの事を教えて貰えないだろうか?」

 少し照れたようにラズリは頼む。実際、自分の事を知るのは少し照れくさいのだろう。

「…私も、作戦前に読んだ本のこと以上は知らない。…良ければそのまま君のものにしてもらってもいいが」

 そう言って、ラークは肩にかけていた鞄から、道中読んでいたシャクーリアの歴史本を取り出す。

「いいのか…?」

「この際だ。しっかり学んだほうがいい。外からでも故郷を守るのであれば尚更な」

「ああ。…大切にさせてもらう」

 晴れやかな笑顔をラズリは浮かべた。目的を達した船は、日が落ちつつある海原を揚々と北上していった。

 

 その頃。

「…ぷはっ…!」

 シャクーリアの城の地下、赤髪の青年――カナンの手足と口がようやっと自由になった。

「殺されなかっただけましよ」

 ミランダが冷たい語気でさらりと言い放つ。周りには、デリスが連れていた屈強な戦士3名が今にも取り押さえんと身構えていた。

「…『天使』である私に手向かうとでも?」

 カナンはまだ戦う意志を失っていないようだった。今にも噛み付きそうな剣幕でミランダを睨む。

「それは天教世界での話よ。水神さまを護り、奉るこのシャクーリアとは縁の無い話。…さっさと国に帰ったらどうかしら?」

 その言葉で全てを悟った。自分が種を蒔き、育てた侵略の軌跡が木っ端みじんに砕けて散ったことを。

「なっ…そんな…、私の…計画がっ…」

 カナンはその場でガクリとうなだれた。

「さ、彼を連れて行って」

 男達がカナンを両脇から抱えて立たせる。カナンはミランダとすれ違う際に、恨みのこもった視線を送った。

「…貴様と共にいた男は何者だ?この私をこうも容易く倒すとは」

「秘密よ。そうね…一言だけ言えば、神様が私たちに遣わしてくれた使者――『天使』さま、かしらね」

「そんなの答えに…!」

「ほら、さっさと歩け!」

 カナンの怒声が遠ざかっていく。開け放たれた扉の向こうを見つめて、ミランダはポツリと呟いた。

「ありがとう、『堕天使』さん。…貴方達の航海に水神さまのご加護があらんことを…」

 


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