――その世界には、『天使』が存在する。
それは五百年前に遡る。この地は古来、どこからともなくやってくる『魔獣』によって荒らされていた。人々は疲弊し、少ない食糧や資源を求め、相争っていた。
そんな折、一人の『天使』が空から堕ちてきた。背に翼を有し、誰も理解できない言語を話し、摩訶不思議な術を扱う。『魔獣』とも意志を通じたことから、人々は彼を『悪魔』と呼び、恐れるようになった。
数日後、各地に多くの『天使』が降りてきた。彼らの目的は、この地を救うこと。最初に訪れた『堕天使』は、『魔獣』と手を組み、この世を滅ぼし、我が物にしようとしている。『堕天使』を倒し、『魔獣』を滅ぼし、この地に平和をもたらすため――。
彼らは戦った。
『堕天使』に教唆された一部の人間達は、『堕天使』と共に『天使』の救世に抗った。しかし、大いなる力を持つ『天使』が負けることは無かった。数年の戦いの後、『堕天使』は『天使』の総領、『白天使』によって倒された。手を組む相手のいなくなった『魔獣』も、直ぐに駆逐され、約束は守られた。
神は『堕天使』の身体を大地に縛り、魂を永遠に生かすという罰を与えた。死しても死ぬことのできぬ、そして何もすることのできぬという、死よりも重い罰。
目的を果たした『天使』の殆どは、いくつかの戒めを残し、天へと帰った。一部の『天使』は、この地を護るために留まった。やがて天を崇める宗教『天教』が誕生し、世界中に広まることとなった。
――それが、その『天使』の末裔が治める天教国家・カルディア神聖王国の歴史である。
南国の秋。既に日は傾き始め、外では涼しい風が吹いている。閉館時間を数分過ぎた博物館の中に、一人の少女が居た。肩まである彼女の赤い髪は、窓から差し込む夕日に照らされて、淡く光っているようにも見える。
(『天使』かぁ…)
自国の歴史を反芻しながら、壁に掛けられている絵をじっと見つめ、動こうとしない。目線の先にあるその絵は丁度、『天使』という表題だった。
「またここにいたのか、ファーナ」
不意に、少女に声が掛かった。少女――ファーナは、はっと我に返って、その声の方を向いた。薄暗くなった博物館の奥から、ランプを持った金髪の青年が歩いてくる。ランプの光を受けて、眼鏡の奥に光る青い瞳と、長い髪が光を放っているように見えた。
「あ、ラーク先生、もう閉館?」
「そうだ。これから正面閉じてくる。お前は…ここに居るか?」
そう訊かれ、ファーナは唸って絵とラークとを見比べた。
「付いていきますっ。ずっと見てても仕方ないし」
「そうか」
それだけ言って、先に進むラークの後ろに、数歩遅れてファーナも歩き出した。まだ夕日が差し込んでいるが、館の中は薄暗い。展示物が、夕日とラークのランプの光で不気味に照らされている。
「しかし、お前も飽きないな。あの絵の目の前に椅子でも付けるか?」
不意にラークがファーナに聞いた。他に誰もいない博物館に、テノールの声が響いてこだまする。
「え?私のために…?」
恍惚の表情を浮かべてファーナはラークを見る。ラークは苦笑いを浮かべて頭を振った。
「いやいや…、あの絵は昔から立ち止まって見る人が多いらしいんだ。お前だけじゃなくてな」
「…ふうん…。何でなんだろう?」
「何故か、なんて、私が聞きたいくらいだな」
丁度扉の前に着き、ラークは外の看板を裏返しにして、施錠する。ファーナは一連の動きを、その訳を考えながら眺めていた。
――大きな満月を背に、逆光で黒く描かれている一人の『天使』。
ファーナはいつも、その絵を見ては不思議な気分になる。何故かなんて解らない。でも、同じ気持ちを他の人も抱いているということなのだろうか。
「どうした?行くぞ」
施錠をし終わったラークに声を掛けられ、ファーナははっとする。
「う、うん」
二人は、再び博物館の奥の方へと向かった。途中、先ほどの絵の前を通り過ぎた。ファーナの先を歩くラークも、ちらりとその絵に目を向けた。彼の秀麗な顔が少し険しくなったように、ファーナには見えた。
大陸の南方にあるこのエルガードという国では、暑さを凌ぐために、地下室を作り様々な物を保存している。この歴史博物館にも地下室があり、古書の類が足の踏み場も無いほど積まれている。その部屋こそが、ラークの研究室でもある。二人はその部屋の中央ほどにある机で、先ほどの絵について書かれている図録を見ていた。
「『天使』…。制作年は約五百年前、作者は不明。天教で言うところの『天使降臨』を描いたもの、というのが通説だ。…ということは、以前も教えたな?」
ファーナはこくりと頷いた。
「元々、この時代の美術品は少ない。世界の至る所で争いごとが起こっていて、焼失されたものが殆ど…。そもそも、人々に美術品を生み出す余裕が無かったからだ。だから、この絵は史料としても価値がある。…まあ、天教の宗教画、としてだがな」
しかしファーナは釈然としない表情をした。
「でも、この絵が発見されたのって、反天教国のフォーレスだって、他の本に載ってたよ?」
その言葉に、ラークが目を見開いた。
「…よく調べたな。わざと教えていなかったのに」
「え?わざと?もーっ!先生やっぱり根性ワルー!」
ファーナがラークを非難する。その様子が可笑しいのか、ラークはクスクスと笑った。
「まあそう怒るな。『調べる』ということを身につけて欲しかったんだ。その上で、この絵について考えて欲しくてな」
きょとんとして、ファーナは再び図録に目をやる。
「どうだ?どう思う?この絵を」
ラークは興味深そうにファーナを見つめる。ファーナはしばらく考えた後、口を開いた。
「解らない…けど、通説で言うようなものじゃないと思う。だって、『天使降臨』って、救済されたとか、そういう感じでしょ?でも、この絵を見てると、悲しくて切なくて、胸が苦しいの。…フォーレスで見つかったっていうのも変。天教徒は、あの国には居ないんでしょう?」
「フォーレスに当時天教徒が居て、その人が描いたという可能性は?」
「え?ええ…?」
ファーナは当惑した。ぐるぐると思考を巡らせるが、少しも考えが纏まらない。ラークはその様子を、優しい笑みを浮かべて見つめていた。
「…今はそこまで考えられれば、それでいい。上出来だ。…それに、真実など、その時代に、その場で生きた者にしか解らない」
ラークの言葉の後半は、少し声音が暗く聞こえたような気がした。
「先生は?私みたいに切ないとか思う?」
ファーナはそんなラークの様子を気にせず無邪気に問う。それに反応して、ラークはすぐに何かを言いかけたが、その言葉を飲み込んでしまった。
「?」
ファーナは首を傾げた。逡巡してから、ラークはその口を開いた。
「――…そうだな。アレを見ると、遣る瀬無い気持ちになるな」
「…そうなんだ、同じだね」
ファーナは笑った。ラークもそれにつられて微笑を浮かべた。
「勉強すれば、どうしてこんな気持ちになるのか、解るかな?」
「さあな…。だが、こうして調べて少しでも解ってきたのなら、そのうち全てが解る日も来るかもしれない。…決して、無駄ではないさ」
ファーナの表情が明るくなる。
「…そうかな?なら頑張ろうっ」
「じゃあ、早速だが、昨日出しておいた宿題、見せて貰おうか」
その言葉に、明るかった表情がみるみる渋くなっていった。
「ええーっ…。もうちょっと他の話しようよー…」
「ダメだ。お前がその自由研究できなくなるだろう?夜もまた遅くなるぞ」
「う、それはヤダ…」
渋々、ファーナは机に向かい始める。しかし、心の中は前を見ていた。
(いつかきっと、この気持ちの理由、解き明かしたいな…)
やがて日が落ち、夜が来る。
夜の闇に冴え渡る月は、静かに、世界を照らす。いつか再び動き出す歴史の中に、彼女が欲する答えがあることを、この時はまだ誰も知る由は無かった。
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